ザ・スターリンを聴き始めたころのお話(その3)

遠藤ミチロウ / TERMINAL

遠藤ミチロウ / TERMINAL

ミチロウがビデオ・スターリンと平行して始めたパラノイア・スターは、2回のライヴですぐに自然消滅してしまったようだ。だからこのバンドのライヴを見た人ってのは少ないと思う。もちろん俺も見ていない。

ただ、音源としては残っている。遠藤ミチロウ名義で出たソロ・アルバム2作目『TERMINAL』がそれだ。このアルバムのバックがパラノイア・スターとクレジットされている。わずか5曲の収録で、10分前後の曲が3曲。

圧巻が1曲目の「飢餓々々帰郷」で、かつてING’Oのソノシートで出たバージョンとはまったく違うもの。このドロドロ感がきっと後の方向性だったのかと思うと、短命で終わったのが非常に惜しいと思う。

確かこのアルバムを購入したのは7月か8月。学校の昼休み中に買いに行き、教室へ持っていったらクラスの奴に見せてと言われて見せたところ、こんなことを言いやがった。「5曲しか入ってねえのに2800円もするの?ふざけてるな」と。

ふざけてるのはおまえだろ。そいつは「プログレって(曲が)長いのをいうんだろ」とか、とち狂った解釈をしているくせに。まあどうでもいいか。

さて、話は戻って、1988年1月のビデオ・スターリンのライヴを最後に、前回書いた理由のとおり、俺はライヴから遠ざかってしまった。そしてビデオ・スターリンはこの年の活動で終わり、ミチロウは今度はあらたにスターリンを結成する。

「ザ」の取れたスターリン。1stアルバムの「JOY」とCDシングルで「包丁とマンジュウ」を買った。後者はシングルのみ収録のパティ・スミス”Ask The Angels”のカバーが入っていたから。アルバムは相変わらずアナログで購入。

テクニックが向上したビデオ・スターリンという印象で、でも割と好きなアルバムだった。しかし、どうしても好きになれなかったのがミチロウをはじめとするメンバーのルックス。当時21歳ぐらいの俺には彼らの格好がオッサンバンドにしか見えなかった。ミチロウが特に。

当時のミチロウは40歳ぐらいだったから仕方の無いことなんだろうけど、そのときの俺はどうしても受け入れられなかった。

2枚目の「STALIN」、そして3枚目の「殺菌バリケート」とCDで購入したが、3枚目でついに俺は完全に離れてしまった。ライヴを1度も見ることもなく、その後アルバムが出ても「まだやってたんだ」なんて思ったぐらい。

俺は再びプログレやヒップ・ホップなんかに傾倒していくようになった。(※次回で終わります)

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